西上寛の日々ブログ

露地栽培の宇治の新茶って飲んだことあります?

2016/06/02

宇治茶の歴史は 日本のお茶の歴史です

鎌倉時代初期 日本に喫茶の習慣を広めた栄西は宋から持ち帰った茶種を「漢柿蔕茶壷」に入れて友人の明恵上人に送りました 明恵上人はその茶種を栂尾の深瀬の地に植え その後宇治の地にも播植したと言われています 13世紀半ばには 後嵯峨天皇が宇治を訪れたのを機に平等院に小松茶園 木幡に西浦茶園が開かれ この地で本格的な茶の栽培が始まりました
南北朝時代には栂尾で生産された茶が「本茶」とされ それに続くとされていた醍醐や宇治の茶は「非茶」と呼ばれました
その頃 上流貴族や大名の間で流行った遊びが 茶の産地の違いを飲み当てて点数を競う「闘茶」という遊びです はじめは本茶と非茶を比べ当てる遊びでしたが 数種類から十数種類の茶を比べ当てる遊びに発展し 各茶産地では 他産地とは異なる香り・味を持った茶を生産しようという傾向が生まれ さまざまな産地の茶が生まれる要因となりました
その後 1374年(応安8年) 豊原信秋が覚王院僧正に「宇治茶」を献上したことが「信秋記」に記されるのですが これが「宇治茶」という記述が歴史上正式に登場した初出です

南北朝前期から中期にかけては栂尾茶に次ぐ存在にすぎなかった宇治茶ですが 室町幕府3代将軍 足利義満の庇護の下に発展の時代を迎え 南北朝末期から15世紀半ばにかけての発展ぶりは目覚ましく 一条兼良が記した尺素往来には「宇治は当代近来の御賞翫」と表現されています その頃に 校正語り継がれる宇治七茗園が成立し「分類草人木」にその存在が記されたました

当時 宇治七茗園をたたえて 次のような和歌が詠まれました
森 祝 宇文字(うもんじ) 川下 奥の山 朝日に続く琵琶とこそ知れ
この七茗園の中で 今も残るのは「奥の山」だけとなっています

さて 歴史の話が長くなりました
宇治の茶産地は 現在では 宇治田原や和束と呼ばれる地域を中心に 抹茶の原料である「碾茶(てんちゃ)」の生産量が非常に好調に伸びています
海外からの旅行者も こぞって和束の産地に訪れています

宇治の茶は 抹茶も玉露も煎茶も 非常に優しい味わいが特徴です
特に露地栽培の煎茶は 香りも強すぎず 渋さも強すぎず 甘みも程よく 一口含むと 楚々とした香りが口中に広がり その後から甘みが少し顔を出したかと思うと強すぎない渋さがスーッと細い糸を引くようにいつまでも余韻として残ってくれます
そう!宇治和束の露地栽培の煎茶は 極上の音楽のようにいつまでも余韻に浸れるんです!

今 この日本に こんなステキな煎茶を作ってくださる農家さんがいて そして この煎茶を作ってくれる茶商さんがいて 本当に良かったなぁ としみじみと思います
そして こんなステキな煎茶を世に喧伝するお手伝いをさせていただけるというのは 日本茶専門店として本当に幸せなことです

この宇治和束の可憐で繊細な煎茶を 是非 皆様にも味わっていただきたいと思います
富士山を仰ぎ見る瞬間や高野山の奥の院で過ごす時間 日本の奥深さに触れる想いがします 宇治和束の煎茶を味わう時 本当に日本に住んでてよかったなぁ としみじみとした感慨がこみ上げてきます

宇治和束茶 本当にいい煎茶です

今回も最後までお読みいただき ありがとうございます(多謝)

【おまけ】
宇治和束
宇治和束茶 バリッとした針のような形状が 極上の煎茶の証です