西上寛の日々ブログ

誰かの当たり前 自分の当たり前

2017/11/14

茶のみのニシウエです
昨日は「今までの当たり前」と「これからの当たり前」の話をさせていただきました

「当たり前」を疑うことが大切であることは そう思っている方々も多いと思います

しかし 「誰かの当たり前」と「自分の当たり前」にもギャップがあることを理解している方は少ないのではないでしょうか?

かく言う私もそうです
例えば 季節的には問題ありますが 冷奴につける辛味は何を使いますか?

私の相方は 金沢市の出身です 冷奴には 辛子をつけるそうです
私は 山葵(わさび)です 最近は山椒がお気に入りですが…

その話では結婚して20年以上経ちますが 今でも 「いやぁ 山葵やろ?」「違うよ 辛子やって」と言い合いになります

つまり 「誰かの当たり前」は自分にとっての当たり前ではなく 「自分にとっての当たり前」は誰かにとっての当たり前では無い ということです

『当たり前』

この言葉自体を疑ってかかる必要があるのかもしれません


金沢では 番茶といえば ほうじ茶(それも棒ほうじ)のことを指します
関東や静岡 九州では 番茶といえば 緑茶が出てきます
関西では 京番茶(葉っぱのスモーキーなほうじ茶)が主に出てきます
『番茶』一つとっても 「当たり前」の基準が異なりますね